
「実存しないアプリのデザインをして何の意味があるの?」
これはデザインSNSのDribbble全盛期によく見かけた批判です。かつてDribbbleは、特にデジタルプロダクトデザインの分野でデザイナーたちが自身のデザイン表現やインタラクションのアイデア、プロトタイプを発信する場として人気を集め、デザイナーが好意的なコメントでお互いの活動を称え合う、居心地の良いコミュニティーでした。
投稿されるデザインはバスケットボールをモチーフとしたサービスコンセプトに合わせて「Shot」と呼ばれ、デザイナーたちは週末など自身の”趣味的な時間”を使って新たな「Shot」を作っていたのでした。
Dribbbleには多くのインタラクションのアイデアが自由に投稿されていた(https://dribbble.com/shots/4874257-Interaction-for-Find-freelancer-app)
あの頃はおそらく今ほどプロダクトデザイナーの数も多くなく、まだ未知の領域をみんなで模索していたという側面もあるでしょうが、Dribbbleの「Shot」の中には現実的なサービス体験を無視したデザインも多くありましたし、その感覚を実際のプロダクト開発に持ち込んでしまって大失敗するようなケースもあったかもしれません。
そんな中、だんだんとサービスの全体性やユーザー体験が根幹となるデジタルプロダクトのデザインにおいてDribbbleでデザイナーたちが模索していたような表現は、”表層的”として冒頭のような批判の的となっていったのです。何となくこの時期が”UXデザイン”という言葉が浸透し始めた頃と重なるようにも思います。
収益を生み出すデザインにのみ価値があるという特殊な環境
このような批判の根幹には「デジタルプロダクトはビジネス的な文脈で価値を生み出して初めて意味がある」という、当たり前だけど辛い現実があります。
前述したような批判が増えていく中、Dribbbleではユーザーたちは「Shot」の投稿に長い言語的背景説明をつけるようになり始め、そのうちそれがあまりにも”仕事的”すぎてつまらなくなってしまった。ただの趣味的な空間として楽しんでいたのに、突然資本主義的な事情を持ち込まれてやる気がなくなってしまったというのがDribbble衰退の一つの理由ではないでしょうか?単に趣味としてデザインアイデアを発信しているだけなのに、自身のデザイナーとしてのプロフェッショナリズムを問われてしまう。それでは面白くないでしょう。
1年前のRedditの投稿「Is Dribbble dead?(Dribbbleは死んだ?)」
こうしてDribbbleは、単なるビジネス的なポートフォリオサイトに成り下がってしまい(ポートフォリオサイトが悪いというわけではなく、もともと持っていたユニークな価値を失ったという意味合いで)、今やアクティブなユーザーも少なく「Shot」を投稿しても大した反応も得られないような状態になってしまったのです。
デジタルプロダクトデザイナーは資本主義の中でのみ息をする?
Dribbbleの独自性は、デジタルプロダクトデザイナーが”趣味的”にデザインと向き合える場を提供したことにあったのだと思います。
デザイナーが趣味的にデザインをするというと、それほど特異なことではないように聞こえるかもしれません。グラフィックデザイナーであれば、ポスターを自作してみたり、Zineを作ってみたり。ファッションデザイナーであれば、服を作ってみたり。何となくイメージしやすそうです。
しかし、デジタルプロダクトを作るのにはプログラミングが必要です。さらに、頑張って実装してみても、オンライン上ではよっぽどユーザー価値がないと誰にも見向きもされません。趣味でアプリを作るのは素晴らしいことだけど、何ヶ月もかけて作ったのに誰もダウンロードしてくれないのは結構悲しいのです。
そこで、デジタルプロダクトデザイナーが趣味的に作れるのが新たなアイデアを表現するモックアップであったり、デザインカンプといったアイデアを表現する”設計図”の創作でした。これに発表の場を与えてくれたのがDribbbleだったのです。つまり、Dribbbleはデジタルプロダクトデザイナーが利益を追求しない非資本主義的な活動を許された唯一の場所だったと言っても過言ではないでしょう。
そしてDribbbleは、それぞれの「Shot」が現実的かどうかは関係なく、その他の非資本主義的な創作活動と同じく新たな表現を”発展させる場”にもなっていたはずなのです。