
非オシャレデザイナーの焦燥
デザイナー。この肩書き、果たしてデザイナー以外にはどう響くのだろうか。
いろいろあるだろうが、「デザインをなりわいにする人種なんてものは、感性がするどくセンスがよくておしゃれに違いない」…と期待されている気がする。もちろん純度百パー私の思い込みだが。
デザイナーたるもの、ベーシックかつ上質でありながら、さりげない個性のある「技あり」ファッションを身に纏い、デスクの環境整備も抜かりなく、間違っても無様 に垂れ下がるコードとか謎のカラーボックスとかは存在しない、もちろん最新ガジェットや揃えるアートへも審美眼が…あり…洗練され… ウッ
耐えきれない。ここまでにさせてほしい。
私は一応デザインの職務についている。印刷ミスでなければ名刺の肩書きにデザイナーと書かれている。しかしオシャレではない。デスクに丸まったティッシュとか余裕で転がっている。
A(デザイナー)=B(オシャレ)の公式が成り立たない。
「いいデザイン」構築スキルには「オシャレさ含むトーン」構築スキルも一要素として間違いなく含まれるだろう。「オシャレなデザイナー」じゃない自分は期待に応えられないのでは?胸を張って「自分はいいデザイナーである」と言えるのか?どうなんだ?え?と囁いてくる内なる自分の声とずっと共に生き、焦燥感と危機感を覚えてきた。
実際、どうなんだろうか?非オシャレデザイナーの自分は、どんな生存戦略を描けるのだろうか?
この記事では、「オシャレとは?」「オシャレスキルとは?」を考えたのち、「オシャレじゃないデザイナー」の価値(そんなものがあればだが)について立ち戻っていこうと思う。
会社員プロダクトデザイナー。ときにプロジェクトマネジメント、リサーチ。福岡⇄東京。たまに文章を書いたりピアノを弾いたり。ハロプロが好き。
そもそも、オシャレってなんだ?
「オシャレ」に対しては複雑な気持ちを一方的にずっと抱いてきた。そもそもオシャレってなんなんだ?もとい、「オシャレな状態」とはなんなのだ?(この定義からはじめること自体、非オシャレ的ではないか?)
前提としてオシャレにもいろいろあると思う。プリ キュアにどハマり中の小学生が憧れるオシャレ、北欧家具セレクトショップ店長こだわりのオシャレ、力士プレイヤー界における温故知新なワンランク上のオシャレ、全部違うだろう。
でもどのオシャレでもトップオシャレピーポーには共通項がある。目指す「オシャレ像」を解像度高くイメージできてて、それを自ら近接して体現できているということだ。
つまりこうだ。
「自分の目指すありたいスタイル」ゴールが具体的でありブレずに設定されている
必要なアイテム・パーツを揃える審美眼とスキルがあり、1を体現している
このふたつが兼ね備えられていると「オシャレな状態」だ。
ゴール設定がないことには始まらないが、実現スキルがあることも必須だ。いくらゴールが崇高でも組み合わせがトンチキでは道半ばだ。
たとえば「洗練された大人スタイルでキメたい」と思ってても、高級スーツに"ハズし"と してキッズ大歓喜のカラフルネックレスが組み合わさってたらそれはもはや「大人のスタイル」ではない謎スタイルだろう。仮にそれぞれ個別ではイケてたとしても。
これは「不要なモノは選ばない」とも言い換えられる。オシャレはいい意味で狭量なのだ。
間に合わせの収納と統一感のない雑貨でゴチャゴチャした余白のない部屋は、だいたいオシャレではない(まれに"あえて"それで奇跡のバランスのオシャレを作り上げる高度オシャレもあるが)。なんだか古傷が痛む話だ。
オシャレを追求し、先頭で輝く = オシャレリーダー
世の中には、自分のオシャレをナチュラルボーン的に追求している者たちがいる。
何がありたい姿であり、何を身に纏いたいかを、呼吸するようにイメージ。実現には何が必要かの探求もおこたらない。ゴール・ビジョンを定め、それを自らを額縁に、描く。
もはや極端な話オシャレは生き方である。そう、オシャレとは「どう生きたいか」とも言い換えられるのだ。なにかしらのアイコンになるのはこういう人たちだろう。
あくまでその人は自然体なのに、その姿やスキルが特異だからこそ、周囲の人間に影響を与え、フォロワーすら作りあげる。まさに、選ばれしオシャレの民…。
フォロワーの列ができるそのさまは、先導するものとして「オシャレリーダー」とも言えそうだ。冒頭で述べた、「ザ・デザイナー」像を地で行く方も、これに合致しているのでないだろうか。
オシャレに息切れしながら着いていく = オシャレフォロワー
改めて考える。私はオシャレか?
無論ちがう。でもオシャレを無視できているかと言うとそれも違う。
オシャレ界には、オシャレリーダーとは別の者たちがいる。
そう、先に述べた、オシャレリーダーについていくオシャレフォロワーだ。
自分からわきあがるような「オシャレスタイル」を持たず、かといってダサいと思われるのも居心地が悪い…。
だからフォロワーは、「たぶん…これ…かな…」とオシャレリーダーが築いたものから選び取るし かない。先に述べたオシャレに必要な要素の「ゴール設定」と「その実現スキル」いずれか、あるいは両方を持たない。
私はもちろんこっち側である。
あなたの黒歴史は、どこから?
大前提として、オシャレフォロワーとしての生き方だって全然ありだ。
だが、いちフォロワーである私の場合、あらゆるオシャレ失敗…もとい、黒歴史を繰り返してきた。
たとえば、先に述べたテンプレ的な「デザイナー的オシャレ」に憧れてる時期があった。「デザイナーたるものセンスのいいとされているモノを追いかけ見せびらかさないと一人前とイキれない」という謎の焦燥にかられていたのだ。
むろん、何もかもスタイルはすべからくモノマネから始まるという一面もある。「形から入る」という言葉があるとおり、それ自体はなにも悪くない。
問題は、あまりにも「わたし」の自然体から離れていたことだ。オシャレに「こうありたい自分」「自分が良いと思えるスタイル」があまりにも伴っていなかった。しかも実現スキルも伴わなかったので組み合わせもちぐは ぐ。イタいダサいのコンボが決まっていた。
そして、これと似たような失敗を繰り返してきたのが私のオシャレ歴史だ。黒と、限りなく黒に近いグレーのグラデーションにいろどられた歴史たち…。
今は「なりたいのはこのスタイル」を多少は自分の頭で考えられるようになってきた。
まあそれも先人のオシャレリーダーたちが築いたスタイルの中からつまみ食いしているような状態だが、前よりは、「"わたし"が目指したいゴール設定」に近いものを取り入れられるようになってきた。ゴール設定が定まると、実現スキルも徐々にマシになる。取捨選択をする軸ができるからだ。
ここまで、何が言いたかったかというと、自分はオシャレフォロワーの中でもオシャレに対して器用ではなかったということだ。
オシャレじゃない、が価値になる(かもしれない)
フォロワーかつオシャレ不器用だからこそ、「自分のオシャレ」感覚を信じ切れないところがある。常に答え合わせをしている感覚はある。
デザイナーという職業上、いわゆる「センス」や実現 力はある程度必要だ(もちろんそれが全てじゃないが)。価値を知らぬ人間に価値は作れない。
では、オシャレフォロワー…ことつまり私は、今後オシャレやセンスに卑屈になり屈服して生きていくしかないのだろうか?それはデザイナーとしての死を意味はしないか?
いや、ある点ではそんなことはないと思いたい。オシャレフォロワーたちこそが身をもって知ることもある。
それは、「オシャレ」とは知識とスキルだということだ。
オシャレフォロワーの、「なんかダサい」の経験数は無限大だ。なぜなら才能がないから。黒歴史の数は負けない。そう、フォロワーはリーダーより「なんかダサい」になるリスクが高い。でもだからこそ、その恥を乗り越えてきた者たちは面構えが変わる。
どういうオシャレを目指したいのか、意識して思考をしないと、我々はオシャレに("っぽい"にすら)マジでなれないことを身をもって理解している。
事例を集め、マッピングし、できる限りゴール設定を具体的にする。そして、これまた事例をあつめ、そのゴールが何で構成されているのかを知る。知識によって、ビジョンを補完するか、上り方を補完する。
あ れ?これこそが、デザインなのでは?と思わなくも、ない。
もちろん、センスの才能がもともと備わっている人よりは時間がかかる。回り道もしている。だからこそ、センスの才能を持っている人じゃないとできないこと、そしてリスペクトはこれ以上ないほど肌感覚にある。でも、センスがない人間だからこその見える景色もあるはずなのだ。
これは、一流のプレイヤーが一流のプレイの方法を言葉にできるかはまた違うのと似ているのではないかと思っている。失敗してきているからこそプロセスの言語化ができるし、その方法論も考えることができる。
そういえば、水野学御大も言ってた。センスとは技術だ。「普通」を知れと。
さしずめ、無知の知、非オシャだからこそのオシャ。ダサいという知はあるのだ。つまり、オシャレじゃないデザイナーにもそれなりの価値は発揮できるはずということだ。
さて、この記事は、非オシャレな人間の悲しき詭弁だろうか? 詭弁かもしれない。でもオシャレ才能がないという十字架を背負ってるんだから、このくらいの詭弁は許して欲しいものだ。
人類のほとんどはオシャレじゃないんだから。たぶん。
会社員プロダクトデザイナー。ときにプロジェクトマネジメント、リサーチ。福岡⇄東京。たまに文章を書いたりピアノを弾いたり。ハロプロが好き。
https://note.com/yuki_doro/